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2006年4月14日 (金)

ツールとしての共通英語

2日間で2社と打ち合わせを持った。1日目はムニヒから来たドイツ人3人と、イギリス人エージェント一人。2日目は、イギリス中部のグローセスターからきたイギリス人4人だ。

1日目はコミュニケーション良好で朗らかにすごした。2日目は一転、文章レベルでは判っても相手の真意が判らなかったり、冗談もあまりウケなかったりしたことが時々あった。英語という点では、イギリス人相手の方が不自由しないはずなのに、この違いは何なのか。

思うに、英語が母国語ではない私やドイツ人は、共通語としての英語をきちんと使っている、つまりは、道具としての英語を使って仕事している、だから、自国語で話すよりも、余程、簡潔明快なヤリトリができるのではないか。一方、英語が母国語の彼らは、英語は道具ではなく、即ち自分自身の一部で、どの言葉も自分を直接表現しているわけで、少し聞きづらいし、回りくどい。

方言や言葉の癖といったものは、それが母国語であれば即ち自分の一部であり修正が難しく、それが共通理解を阻害しているとしても、どうしようもないのではないか。さらに彼らは、当然ながら「これがホンモノの英語」と思っていて、それが相互理解にマイナスに働いているのではないか。勿論ホンモノの英語には違いないが、世界の共通語としての、ツールとしての英語ではないのではないか。

そうは言うものの、今の私のレベルでは、きっと私の「英語能力不足」ということになるだろう。反論はできない。反論するためにも、日々益々精進せねばなるまい。

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